2026/02/04 日記 恵方巻の話。おかための日記。 #言語化 続きを読む---昨日は節分だったが、恵方巻は食べなかった。約10年ほど前からだろうか。毎年なるべく食べていたが、今年はもうすっぱり諦めた。「恵方巻」というイベントは、恵方(方角)を向いて、大きな太巻きを無言で食べきる、というものだ。中には色んな具材が入っていて、七福神にちなんでいたりいなかったりする。実は、私は恵方巻という食べ物が苦手だ。そもそもではあるが、私は太巻きが苦手だった。単純に入っている具材が苦手で、恵方巻はその極みみたいなものだ。特に刺身が苦手で、うっかりまぐろやらえびやら入っていると苦行を強いられる。もちろん、既存の形に縛られず長いものであればいいという風にロール巻やサラダ巻もある。私も気にせず、そうしていた年もあった。ただ、無言でもぐもぐとそちらを見ながら食べきる…という行事は、食事の時間をゆっくり好きなペースで楽しみたい私には結構相性が悪い。でも、やるなら、ちゃんとやりたい。相反した感情をぶつけつつ、なんやかんや頑張って食べ終えてから、別にやらなくてもよかったのでは…?と、毎年漠然と思ってしまう。そして、今年はすっぱりやめた。やったからといって、何かすごいいい事があるわけでもないし、やらなかったといって、何か悪いことが起きるわけでもない。こういってしまえばなんだけど、ゲン担ぎやらなんやらは、ほとんど気の持ちようであり、実際に確かな効能があるというよりも、信じて行動を起こすことに意味がある気がする。私の中でその行為に疑問が生じ、苦痛の方が大きくなった時点で、目指す信仰ではなくなってしまった。反対に、毎年続けている食に関する季節イベントは、七草がゆだ。正直、思う。自分が食べたいからやっているのでは? 謂われや願いのためにやっているのではなく、あくまでそれを食べることをメインとして、かこつけて祈りが通じたら嬉しいな♪みたいな、都合のいい考えの元にやっているのではないか。そういわれると、否定はできない。だって七草がゆおいしいもん。七草がゆは現実的な面でも嬉しい部分がある。年末年始ドカ食いした後の食休み(胃休み)になるのと、正月という季節に一度区切りをつけられることだ。季節行事というのは、手間と嬉しいのバランスが大事なのかもしれない。畳む
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昨日は節分だったが、恵方巻は食べなかった。
約10年ほど前からだろうか。毎年なるべく食べていたが、今年はもうすっぱり諦めた。
「恵方巻」というイベントは、恵方(方角)を向いて、大きな太巻きを無言で食べきる、というものだ。中には色んな具材が入っていて、七福神にちなんでいたりいなかったりする。
実は、私は恵方巻という食べ物が苦手だ。
そもそもではあるが、私は太巻きが苦手だった。単純に入っている具材が苦手で、恵方巻はその極みみたいなものだ。特に刺身が苦手で、うっかりまぐろやらえびやら入っていると苦行を強いられる。もちろん、既存の形に縛られず長いものであればいいという風にロール巻やサラダ巻もある。私も気にせず、そうしていた年もあった。
ただ、無言でもぐもぐとそちらを見ながら食べきる…という行事は、食事の時間をゆっくり好きなペースで楽しみたい私には結構相性が悪い。でも、やるなら、ちゃんとやりたい。
相反した感情をぶつけつつ、なんやかんや頑張って食べ終えてから、別にやらなくてもよかったのでは…?と、毎年漠然と思ってしまう。
そして、今年はすっぱりやめた。
やったからといって、何かすごいいい事があるわけでもないし、やらなかったといって、何か悪いことが起きるわけでもない。
こういってしまえばなんだけど、ゲン担ぎやらなんやらは、ほとんど気の持ちようであり、実際に確かな効能があるというよりも、信じて行動を起こすことに意味がある気がする。
私の中でその行為に疑問が生じ、苦痛の方が大きくなった時点で、目指す信仰ではなくなってしまった。
反対に、毎年続けている食に関する季節イベントは、七草がゆだ。
正直、思う。自分が食べたいからやっているのでは? 謂われや願いのためにやっているのではなく、あくまでそれを食べることをメインとして、かこつけて祈りが通じたら嬉しいな♪みたいな、都合のいい考えの元にやっているのではないか。
そういわれると、否定はできない。だって七草がゆおいしいもん。
七草がゆは現実的な面でも嬉しい部分がある。年末年始ドカ食いした後の食休み(胃休み)になるのと、正月という季節に一度区切りをつけられることだ。季節行事というのは、手間と嬉しいのバランスが大事なのかもしれない。
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